語ること、談ること、騙ること

小学校低学年の頃、大好きだった先生がいた。


着任2,3年目の綺麗な女性の先生で、僕はとにかくその先生のことが大好きだった。お昼休み教室で隠れんぼして遊んだり、おかしな形の粘土を作って見せびらかしに行ったり、頻繁に本を読み聞かせてもらったり、暇さえあればその先生のところへ向かった。いつも笑顔で僕のことを迎えてくれる先生は、それでもやっぱり、怒ったときは怖かった。僕がふざけて雑巾の水を絞らずに掃除し続けて、そのために友達が足をお滑らせて転んで頭を廊下にぶつけた時なんかは、ひどく怒られて、怒られたことよりも、先生に嫌われてしまうことが怖くて、僕はひどく泣いた。けれど、次の日学校に行ったら先生は、いつもとまったく変わらない笑顔で挨拶してくれた。嬉しい気持ちと、この先生には嫌われまいとする決意がぐっと胸にこみ上げた。僕はとにかく先生のことが大好きだった。


先生は確か、小学校2年の春に他の学校に転任してしまった。ぼくは先生に怒られた時くらい泣き喚いた。なぜだかわからないけれど、信じられないくらい泣いた。やけになって、1日1時間までと決められていたテレビゲームを、1時間以上使ってしまった僕は、当然のごとく母親に叱られ、ゲームごときでそんなに喚くなと愛想をつかされた。僕は母にこの気持ちを打ち明けたくなかった。知って欲しくなかった。けれど夕方になって流石に泣きつかれた僕は、すんなりと折れて、仕方なく訳を説明した。母親は僕を抱きしめてくれた。この時ほど優しい母親の抱擁を、僕はそれ以来の記憶を必死で辿ってみても思い出せはしない。


それ以降のことはあんまりよく覚えていないんだけど、どこか名も知れぬ遠いところへいってしまうらしい先生に、なにかプレゼントしようということになった。ぼくは確かコップを買った。3月の末だった気がする、コップを先生に届けるためだけに、誰も他の児童のいない学校へ向かった。コップを渡した。先生は本当に嬉しそうな顔をしてくれた。あの顔、あの優しくて、あったかくて、寂しげな、あの顔を、どうしても忘れることはないだろうと思った。


僕は「初恋」の話をしろと言われたとき、決まってこの話を、決まってこのトーンで、決まってこの内容量で、決まって少しだけ悲しくなりながら言う。その気持ちに嘘はない。しかし本当にそうだろうかという気持ちも同時に襲い来る。逆にこの話に真実はあるのだろうか、と。


果たして、僕がふざけて雑巾の水を絞らずに掃除し続けて、頭を打った友達って誰だっただろう、そもそもそんなやついただろうか。ゲームは1日1時間までだっただろうか、1日30分までじゃなかっただろうか。プレゼントしたのはコップだったっけ、花束とかじゃなかったっけ、そもそも先生に渡せたんだっけ……。と、それはもう堂々巡りの問答が続く。最後には、先生に抱いていた気持ちが果たして「初恋」といっていいのかどうかすら怪しくなってくる。後になって、飲みの席かなんかで「初恋」の話を要請されたとき、自分が、ノスタルジーで色濃い幼少期の感情を、遡及的に「恋」といってしつらえただけではなかったか? 結局それも飲みの席の話なので、真相が定かではない。けれど確かなことに、僕はいま現在「初恋」の話をこの小学校低学年のころの記憶と信じ込んでいる。


語るうちに、そしてそれを誰かと共有し談笑しているうちに、その語りに自分自身が騙されてしまった。
語りは語りとして生命を宿し、自分の真実としての過去とは一線を画す、フィクショナルな第三の世界として、僕のなかで息吹いている。そしてその語りの中の自分は、すでに自分ではない。語りの中を自由に生きる誰かなのだ。僕はそれをおそろしく感じつつも、その語りを自分のものとして語れる限り、安寧で居続けられるような気がする。


今頃先生はどこで何をしているのだろうか。けれどきっと僕は先生に会わない方がいい。先生は恐ろしいほど老け、恐ろしいほど現実主義者で、ぼくが演劇を続けているなんて知った暁には、めちゃくちゃに怒られるかも知れない。ちゃんと働け、ちゃんと稼げ、だの、大人としてものをいう先生にめちゃくちゃ辟易するかもしれない。どこまでもそれは、かもしれない、の領域を出ない。けれど、少なくとも、語りのなかで先生が生き続けるからこそ、全てが美しく収まる。先生は僕に語られるように、かくれんぼしていればいいし、コップをもらえばいい。そして、僕に「初恋」の気持ちを向けられていれば良いのだ。


なにかボタンの掛け違いのような出来事で、僕と先生がどこかで出会わなければいい。
そしてずっと僕の物語の中で彼女が生き続けていればいい。
あとは、あわよくば、本当に贅沢を言えば、先生の語りの中でも、僕が僕ではない誰かとして生き続けているのを望むだけだ。


どうか、ぼくのしらないどこかでも、ずっとげんきでありますように……
敬具


橋本竜一郎