終演しましたー!

いやーお疲れ様です。主宰の西村です。
まさか終演しましたブログを書けるとは…と半分嬉しく半分ドキドキです。色々書きたいことはあるんですが、公演の思い出的なこと書いてきます。


今回の公演はですね、なかなか面白かったです。こんな時期でも無理して公演してよかったなと思いました。でも、お決まりな感じになりますが、この公演ができたのは座組の人や総務部の人、お手伝いに来てくれた人や駒小まで観に来てくれた人など、すごく多くの人のおかげだなぁとしみじみと感じています。ありがてぇ!ありがてぇよ!

稽古とか、僕は今まで演出をつけたことがなかったんですが、はしもんやけんしんが色々と相談に乗ってくれたりアドバイスくれたり意見してくれたり、もうほとんど演出助手ですね。めっちゃ頼ってました。他の人なら決断力でもって決めれるんだろうなーなんて思いながら、まぁ楽しいし良いかと思いながら稽古してました。彼らにとって何か実りはあったんか?もっとなんか身になることを言ってやれば良かったなとも思いました。そんなこと思ってたりしたら、小屋入り前の稽古場に同学年の仁君が来てくれたり、小屋入り中の場稽古には仁君含め後輩の池松とか、延長さんも来てくれて、あぁなんかいい感じだなぁなんて思いました。

今回の小屋入りは非常に多くの後輩に手伝ってもらいました。割と多くの後輩が公演できなかったり制限が多い中で執行代やってたので、演劇楽しんで欲しいなぁとかの建前半分、人手ないからメチャ働かせるかぁとかの打算半分て感じで。結局すごく働かせてしまって、こちらとしてはすごく楽してしまいました。仕込みの時も後輩の舞台3人を酷使してしまったし、ウェブサイト作ったりツイッターの運営も後輩の太郎にさせてしまったし。申し訳ねー。ごめんよー。でもありがとー。
後輩のことを書いたんですが、非常に同期の人々には救われました。特に大内と仁君の2人には感謝してもしきれません。この2人とは今までも普通に仲良かったんですが(僕はそう思っているんですが)、この小屋入りを通じて、なんかもう非常に親しいなぁ!という感じになりました。ここまで信頼できる人もなかなか居ないし、次も誘おーという感じです。
あぁ非常にダラダラと書いてしまった。いやーブログ難しい。今回の公演はざっとこんな感じです。要するに皆さんありがとうございました!です。座組の人は勿論、この公演に関わっていただいたすべての方に感謝です。


はい。こんな感じでブログ終わりです。僕はまだやりたいことがいっぱいあるので、当分演劇を続けそうです。次はきちんと対面でやりたいですね。
それでは皆様お元気で。
またどこかでお会いしましょう〜


西村太一

展望

公演が終わったあとに公演について書くのは作演出くらいだったので何を書こうかと思案しています。


彼に、西村に芝居をやるからと誘われた時、やはりという思いと本気か?という思いがありました。この時勢の中で公演の準備をし、そして公演を打つ、しかもお客様を招待してというのは正直なところ難しいのではないかというのが最初に考えたことです。ただまぁ同じ劇団で2年連れ添い彼のやってることを見ていて、いつかきっと私は何かしら声がかかるだろうしその時はまぁ一緒にやろうとはうっすらと考えていました。ただそれが思っていたよりも早かっただけです。


本当にたくさんの制限や制約がありました。しかしながらもその中で出来ることを模索する彼は僕が想像していた作演出であり、なんなら思っていたよりも(と言うと怒られそうですけど)真摯に自分の作品に向き合っていました。最終的に彼が満足のいく作品になったのかどうかは私の知るとことではありませんが、きっといいものになったことと思います。数は多くないですが、お客様を呼んで公演が打てるという事自体とてもありがたいことですし、これに携わり隣で彼を見ていてとても楽しい公演でした。


彼はまた公演を打つ、あるいは何らかの形で作品を作ることでしょうし、願わくばそこにまた携われたらと期待もしています。ひとまずは、今回の作品ができるだけたくさんの方に届いてほしいと思っています。


大内朗宏

語ること、談ること、騙ること

小学校低学年の頃、大好きだった先生がいた。


着任2,3年目の綺麗な女性の先生で、僕はとにかくその先生のことが大好きだった。お昼休み教室で隠れんぼして遊んだり、おかしな形の粘土を作って見せびらかしに行ったり、頻繁に本を読み聞かせてもらったり、暇さえあればその先生のところへ向かった。いつも笑顔で僕のことを迎えてくれる先生は、それでもやっぱり、怒ったときは怖かった。僕がふざけて雑巾の水を絞らずに掃除し続けて、そのために友達が足をお滑らせて転んで頭を廊下にぶつけた時なんかは、ひどく怒られて、怒られたことよりも、先生に嫌われてしまうことが怖くて、僕はひどく泣いた。けれど、次の日学校に行ったら先生は、いつもとまったく変わらない笑顔で挨拶してくれた。嬉しい気持ちと、この先生には嫌われまいとする決意がぐっと胸にこみ上げた。僕はとにかく先生のことが大好きだった。


先生は確か、小学校2年の春に他の学校に転任してしまった。ぼくは先生に怒られた時くらい泣き喚いた。なぜだかわからないけれど、信じられないくらい泣いた。やけになって、1日1時間までと決められていたテレビゲームを、1時間以上使ってしまった僕は、当然のごとく母親に叱られ、ゲームごときでそんなに喚くなと愛想をつかされた。僕は母にこの気持ちを打ち明けたくなかった。知って欲しくなかった。けれど夕方になって流石に泣きつかれた僕は、すんなりと折れて、仕方なく訳を説明した。母親は僕を抱きしめてくれた。この時ほど優しい母親の抱擁を、僕はそれ以来の記憶を必死で辿ってみても思い出せはしない。


それ以降のことはあんまりよく覚えていないんだけど、どこか名も知れぬ遠いところへいってしまうらしい先生に、なにかプレゼントしようということになった。ぼくは確かコップを買った。3月の末だった気がする、コップを先生に届けるためだけに、誰も他の児童のいない学校へ向かった。コップを渡した。先生は本当に嬉しそうな顔をしてくれた。あの顔、あの優しくて、あったかくて、寂しげな、あの顔を、どうしても忘れることはないだろうと思った。


僕は「初恋」の話をしろと言われたとき、決まってこの話を、決まってこのトーンで、決まってこの内容量で、決まって少しだけ悲しくなりながら言う。その気持ちに嘘はない。しかし本当にそうだろうかという気持ちも同時に襲い来る。逆にこの話に真実はあるのだろうか、と。


果たして、僕がふざけて雑巾の水を絞らずに掃除し続けて、頭を打った友達って誰だっただろう、そもそもそんなやついただろうか。ゲームは1日1時間までだっただろうか、1日30分までじゃなかっただろうか。プレゼントしたのはコップだったっけ、花束とかじゃなかったっけ、そもそも先生に渡せたんだっけ……。と、それはもう堂々巡りの問答が続く。最後には、先生に抱いていた気持ちが果たして「初恋」といっていいのかどうかすら怪しくなってくる。後になって、飲みの席かなんかで「初恋」の話を要請されたとき、自分が、ノスタルジーで色濃い幼少期の感情を、遡及的に「恋」といってしつらえただけではなかったか? 結局それも飲みの席の話なので、真相が定かではない。けれど確かなことに、僕はいま現在「初恋」の話をこの小学校低学年のころの記憶と信じ込んでいる。


語るうちに、そしてそれを誰かと共有し談笑しているうちに、その語りに自分自身が騙されてしまった。
語りは語りとして生命を宿し、自分の真実としての過去とは一線を画す、フィクショナルな第三の世界として、僕のなかで息吹いている。そしてその語りの中の自分は、すでに自分ではない。語りの中を自由に生きる誰かなのだ。僕はそれをおそろしく感じつつも、その語りを自分のものとして語れる限り、安寧で居続けられるような気がする。


今頃先生はどこで何をしているのだろうか。けれどきっと僕は先生に会わない方がいい。先生は恐ろしいほど老け、恐ろしいほど現実主義者で、ぼくが演劇を続けているなんて知った暁には、めちゃくちゃに怒られるかも知れない。ちゃんと働け、ちゃんと稼げ、だの、大人としてものをいう先生にめちゃくちゃ辟易するかもしれない。どこまでもそれは、かもしれない、の領域を出ない。けれど、少なくとも、語りのなかで先生が生き続けるからこそ、全てが美しく収まる。先生は僕に語られるように、かくれんぼしていればいいし、コップをもらえばいい。そして、僕に「初恋」の気持ちを向けられていれば良いのだ。


なにかボタンの掛け違いのような出来事で、僕と先生がどこかで出会わなければいい。
そしてずっと僕の物語の中で彼女が生き続けていればいい。
あとは、あわよくば、本当に贅沢を言えば、先生の語りの中でも、僕が僕ではない誰かとして生き続けているのを望むだけだ。


どうか、ぼくのしらないどこかでも、ずっとげんきでありますように……
敬具


橋本竜一郎

音響Aのながめのつぶやき

主宰から誘われて、ふと作品を作る一端に関わることになりました。
コロナ禍もあり、久しぶりに舞台で演出、役者、スタッフたちが作品を形作っていく過程を関わり、面白いな、いいなと改めて感じました。


舞台での上演、撮影を終え、いざ映像となったものを見た時とても不思議な感覚になりました。


実際に僕たちが目の前で見ていた作品と同じだけど、どこか、しかし明らかにすこしちがう1つの作品に感じられました。
劣化などではなく、生で見るのとは違う面白さがありました。


僕は、音響員として参加をし、どれだけ生の舞台と同じような鑑賞体験をしてもらえる様に、特に録音面で頑張ることが今回の自分の仕事だと思っていました。
心のどこかで、生の演劇に映像が劣るのは仕方がない。演劇の映像で大切なのは、90点の生の鑑賞体験を70点ではなく、85点として出すことだという認識がありました。


しかし、今回出来上がった作品は、そこでは点数付けするべきではないのだろうと思います。
本当は、生の演劇を再現することが正しいのかも知れません。録音の面でも100%再現出来るのが理想なのかもしれません。


結局今回出来たのは、こんな駄文を含めてこの作品を見て下さる皆さんの鑑賞へのノイズを、なるべく消す事くらいかもしれません。
それでも、僕にとって今回公演のどちらの鑑賞体験もとても面白いものだと自信を持って言えます。


皆さんが作品それ自体を楽しんで頂く一助となっていますように。


是非鑑賞の際は、こおろぎが鳴き終わる前に、部屋を暗くしてヘッドホンをして見て頂けますと幸いです。

はじめてのこまばしょうくうかん

はじめてのこまばしょうくうかん
さたけけんしん

 

ぼくはいちねんせいなので、こまばでのはじめてのえんげきでした。
しらないことがいっぱいで、おにいさんたちにいろいろおしえてもらいました。
こまばしょうくうかんはおもっていたよりずっとずっとずーっとおおきくて、いっぱいたくさんきざいがあって、こんなすっごいところでえんげきができるなんてゆめみたいだー!ここはてんごくかー!とおもってうれしかったです。ブログ難しい。


ぶっちゃけ劇場自体への感動はそんないうほどはなかったです。おーでけーなーすげーなーワクワクすんなーくらいの感じでした。
どちらかというとそれ以外の部分の方がよっぽど楽しくて、まず稽古の段階でこんな楽しい稽古はなかなかねえぞって感じでした。
どんな感じだったかとかは多分西村さんとか橋本さんが書いてるから書かないですけど、自由に発言できる空気感みたいのを西村さんが作り出してたことが、あんなに楽しくて充実した稽古になった大きな原因なんだろうなあと。


空気感で言うと小屋入り中もそうで、皆さんが小屋の空気をいい方向に持っていってくださってて、かっけえなあってなりました。そんでもって各々の役割をちゃんとグワーって果たしてて、プロフェッショナル感的なやつをすごい感じて、さらにかっけえなあってなりました。いやほんとにかっこよかったあ。「仁さん大好き」は最低でも25回は言いました。俺仁さんになりてえ。


あと駒場の近くでのおいしいご飯屋さんたくさん教えてもらって嬉しかったです。2日目と3日目に行ったことなかったご飯屋さんに連れててってもらって、両方ともむちゃくちゃうまかったー。それに比べて初日はなんでマックやったねんって思いました。マックでいうと初めて食べたエグチは美味しかったです。マックでバイトしてる橋本さん曰くエグチが一番おすすめだそうです。理由はここでは書けません。


2年半ぶりに舞台に立って、お客さんの前で芝居して、初ステではびっくりとんでもやらかしをして、楽ステではびっくりとんでもいい作品になった感じがして、やっぱり俺は演劇やりたいなあと思いました。こんなかっけえ人たちとこんな好きな脚本できるの最高だなあって思いました。ので、今後も演劇を続けます。ってここで勝手にひっそり宣言しときます。
またこの人たちと一緒にお芝居したいなと思ったし、色んな人たちと色んなところで色んなお芝居したいなと思いました。

 

 

感性

僕は日頃、感性とは何か, ということをよく考えます(嘘です).

自分の内なる“感性”なるものを意識してみろ, と言われると, 認知のその向こう側にある,形容し難い, 漠然とした非言語の堆積を感じるのではないでしょうか.
実際多くの表現物は, このよくわからないものをよくわからないまま媒体に擦り付けたような出来ですし, それを観る側もまた, 受容体としてこのよくわからない非言語を用いることが多いようです.
「なんか良い」,「深い」, 「形容し難い」etc … そういう非言語がよく吐き出す感想です.

当然ですが, こんなものが“感性”であるはずはないのです. 美術, 音楽, 芸能などのいわゆる“芸術”は, 本来執拗なほどに体系化された領域であるし, そうでなければそもそも成り立たない気もします.
この体系中のあるノードの良し悪しを判断するのがおそらく“感性”なんでしょうが, こう考えると前述の“感性”はずいぶん歪に思えます.
ある表現から, 構成, 技法, 文脈, 体系中での位置を読み取り, 言語的に評価する知識と技術, それこそが“感性”なのではないでしょうか?(煽) 漠然とした非言語で自己完結的に評価された絵画がウン十億円の市場価値を持つ訳ないし?(煽煽)

数学を学ばなければ行列の意義はわからないし, バスケをやらなければNBAの凄さはわからないはずですが, 芸術の評価は先天的にできるというのはやや傲慢にも感じます.

結局何が言いたかったかというと, 演劇も同じだということです. 劇作をするなら, なぜのストーリー展開なのか, なぜその演出なのか, なぜその配役なのか, その結果何が面白いのかを作り手側は完璧に言語化できなくてはならないし, 解釈を観る側に委ねるなどという甘えは論外なのではないでしょうか.
自分の演劇経験で得た知識や理論を少しずつ素直に積み上げて行くことでしか劇作の向上はなされないだろうし, よくわからない非言語的感覚に頼って無理繰り“それっぽい”ものを作るのは, 理屈もわからない数学公式を振り回しているのと同じです. こんなことをしていては, 何度劇作をしようとも初めの一歩すら踏み出せないのではないでしょうか.
今回の作品は, そういった無理をせず, 素直に, 着実に一歩目を踏み出そうという意気を感じる作品でした. 今後この演劇が、二歩目、三歩目を踏み出していくのが、とても楽しみです.

手短に

一見とっつきにくそうな話に見えて劇中にタネ明かしのようなものがある程度なされていました。変に間延びすることもなかったので、いわゆる観劇リテラシーのようなものがない人間でも面白い作品なのではないかと思います。
舞台や音響、照明がノイズにならず、役者の演技の良さが出ていたと思います。
個人的にはもっと役者が動き回っている方が好みですが、少ないアクトスペースで頑張っていたと思います。
見る際はイヤホンをつけた方がおそらく雰囲気が出て良いと思います。