感性

僕は日頃、感性とは何か, ということをよく考えます(嘘です).

自分の内なる“感性”なるものを意識してみろ, と言われると, 認知のその向こう側にある,形容し難い, 漠然とした非言語の堆積を感じるのではないでしょうか.
実際多くの表現物は, このよくわからないものをよくわからないまま媒体に擦り付けたような出来ですし, それを観る側もまた, 受容体としてこのよくわからない非言語を用いることが多いようです.
「なんか良い」,「深い」, 「形容し難い」etc … そういう非言語がよく吐き出す感想です.

当然ですが, こんなものが“感性”であるはずはないのです. 美術, 音楽, 芸能などのいわゆる“芸術”は, 本来執拗なほどに体系化された領域であるし, そうでなければそもそも成り立たない気もします.
この体系中のあるノードの良し悪しを判断するのがおそらく“感性”なんでしょうが, こう考えると前述の“感性”はずいぶん歪に思えます.
ある表現から, 構成, 技法, 文脈, 体系中での位置を読み取り, 言語的に評価する知識と技術, それこそが“感性”なのではないでしょうか?(煽) 漠然とした非言語で自己完結的に評価された絵画がウン十億円の市場価値を持つ訳ないし?(煽煽)

数学を学ばなければ行列の意義はわからないし, バスケをやらなければNBAの凄さはわからないはずですが, 芸術の評価は先天的にできるというのはやや傲慢にも感じます.

結局何が言いたかったかというと, 演劇も同じだということです. 劇作をするなら, なぜのストーリー展開なのか, なぜその演出なのか, なぜその配役なのか, その結果何が面白いのかを作り手側は完璧に言語化できなくてはならないし, 解釈を観る側に委ねるなどという甘えは論外なのではないでしょうか.
自分の演劇経験で得た知識や理論を少しずつ素直に積み上げて行くことでしか劇作の向上はなされないだろうし, よくわからない非言語的感覚に頼って無理繰り“それっぽい”ものを作るのは, 理屈もわからない数学公式を振り回しているのと同じです. こんなことをしていては, 何度劇作をしようとも初めの一歩すら踏み出せないのではないでしょうか.
今回の作品は, そういった無理をせず, 素直に, 着実に一歩目を踏み出そうという意気を感じる作品でした. 今後この演劇が、二歩目、三歩目を踏み出していくのが、とても楽しみです.